岩手県の静かな山あいで、飼い犬が忽然と姿を消しました。
残されていたのは、ちぎれたリードと首輪、そして草地に続く引きずられたような跡。
山の中からは、クマのものとみられる大きな足跡も発見されました。警察は「犬がクマに襲われた可能性が高い」とみて、現場周辺の警戒を強めています。
■早朝に異変、鳴き声のあと犬が消えた
事件が起きたのは10月26日、岩手県住田町上有住(かみありす)。
午前6時ごろ、柴犬を飼っていた男性が庭に出ると、いつもつながれているはずの愛犬の姿が見当たりませんでした。
リードは途中で引きちぎられたようになっており、首輪も地面に残されていました。
飼い主によると、「午前3時ごろに普段とは違う鳴き声を聞いた」ということで、その時すでに何らかの異変が起きていたとみられます。
警察と町が出動し、現場を調べたところ、近くの草地がなぎ倒され、そこから山の方へと続く“引きずられた跡”が確認されました。
さらに、約100メートル離れた山中では、クマの足跡が見つかったといいます。犬やクマはまだ発見されておらず、町は緊急の警戒態勢を敷いています。
■「怖くて外に出られない」 山あいの住民に広がる不安
現場周辺は民家が点在する山間部。普段からクマの目撃が多い地域ではありますが、ここ数日は情報がなく、「まさか自分たちの家のすぐそばで…」という驚きの声があがっています。
近隣住民の70代女性は、「夜は外に出ないようにしていたけど、朝も怖くて庭に出られなくなった」と話します。
また、子どもを通わせる地元小学校でも安全確認が行われ、登下校の付き添いを強化する動きが出ています。
■行政と警察が連携、わな設置を検討
人的被害は確認されていませんが、犬が襲われたとみられる被害を受け、警察は周囲のパトロールを強化。町はクマの出没場所を特定するため、わなの設置を検討しています。
町の担当者は「この辺りはドングリや栗の木が多く、今年は実りが少ない。山のエサが不足して、里に降りてきた可能性がある」と話しています。
■全国で相次ぐ“住宅地クマ出没” 背景にある異常気象とエサ不足
2025年は全国的にクマの出没件数が過去最多を更新する勢いです。環境省の速報値によると、北海道・東北・北陸を中心に、クマによる人的被害は前年の約1.5倍。特に東北地方では、例年の3倍近い通報が寄せられています。
専門家によれば、クマの活動が活発化している背景には「エサ不足」と「温暖化」があるといいます。
野生動物学者の中村正彦さん(東北野生動物研究会)は、こう指摘します。
「ドングリの不作や果樹の減少により、山の中で十分な栄養を取れないクマが人里に近づいている。近年は暖冬傾向が続き、冬眠のタイミングも遅れがちで、結果的に“空腹の期間”が長くなっているのです」
クマはもともと雑食性で、果実や昆虫、小動物を食べます。犬が襲われたケースも全国的に報告されており、2024年には秋田県仙北市で猟友会が緊急銃猟を行った際、クマが犬を追い回していた事例もありました。
■“ペットが狙われる”現実 なぜ犬が標的に?
なぜクマは犬を襲うのか。野生動物の生態に詳しい猟友会OBの男性はこう話します。
「クマは本来、人や犬を避ける動物ですが、最近は人の匂いに慣れている個体も増えています。特に夜間、鳴き声や食べ残しの匂いをたどって近づくことがある。犬を敵とみなしたり、興奮して襲うケースもあるんです」
住田町のように「囲いのない屋外」での飼育は、かつては一般的でしたが、近年の出没状況を踏まえれば危険度が高いといえます。
専門家は、「夜間は室内や柵のある場所で飼うこと」「犬の食器やエサの残りを外に置かないこと」など、日常の管理徹底を呼びかけています。
■共生の限界と、山あいの暮らし
岩手県は「ツキノワグマとの共生」を掲げ、長年にわたり駆除よりも警戒・教育を重視してきました。しかし、ここ数年は“共生の限界”を指摘する声が増えています。
町の高齢者の中には、「昔は山でクマと出くわしても互いに逃げた。でも今のクマは人を怖がらない」と話す人も。自然と人間の距離が縮まった結果、かつての“静かな共存”が崩れつつある現実が浮き彫りになっています。
■“犬の行方”は今も不明… 地域に残る不安
26日午後の時点でも、犬もクマも発見されていません。町は引き続き警戒を呼びかけており、住民には「早朝・夕方の屋外作業を避ける」「ゴミは出しっぱなしにしない」「クマを見かけたらすぐ通報する」よう注意を促しています。
犬を失った飼い主は、「いつも一緒にいたから、まだ信じられない。せめて見つけてあげたい」と話しました。
リードの先に残された首輪だけが、静かに風に揺れています。
■まとめ:「人とクマ」 これからの距離をどう取るか
今回の事件は、単なる“ペットの被害”ではありません。人間の生活圏と野生の世界の境界線が、年々あいまいになっていることを示す警鐘でもあります。
ドングリ不作や気候変動、人口減少による里山の放置――。こうした要素が重なり、クマが里に降りてくる時代が現実になりました。
愛犬を失った悲しみの裏に、私たちが向き合うべき課題があります。
それは「自然をどう守り、どう距離を取るか」。そして、「人と動物が共に生きる社会とは何か」という問いです。
クマに襲われたとみられる柴犬の行方はいまも分かっていません。
静かな山あいに残されたリードが、私たちに語りかけているのかもしれません。

